歌詞

青葉市子『いきのこり●ぼくら』の歌詞考察|歌詞に込められた思い

今回は、青葉 市子『いきのこり●ぼくら』の歌詞について考察していこうかと思います。”ここの歌詞はどのような意味が込められているのか”を考えながら書いていくため、新しい発見のある記事となっていると思います。この記事と合わせて『いきのこり●ぼくら』を聴いてみると変な感じがするかもしれませんがぜひ、聴いてみてほしいです。では、歌詞を引用して書いていきます。

『いきのこり●ぼくら』の歌詞考察

雨雲の灯りで

雨雲の灯りで瞳をつないで ようやく辿り着いた ここは大きな日本家屋 長いトンネルを抜けるまで 怖かったよね ほっとして 座り込んだ

歌ネット

ここの歌詞だけを見て考えてみると恐らく、どこかの町から歩いて歩いて、長いトンネルを通った際に”真っ暗で怖い”と思いながらなんとか抜けて、その先で大きな日本家屋に着いたのかなという構想をしました。先程までの怖かった経験を、日本家屋の中でほっと座り込みながら考え直しているのかなと思うと”恐怖体験はいつまでも記憶されるんだな”と感じました。戦争という恐怖とは別で、いじめだったり説教などの恐怖もあるので闇雲に恐怖を人に与えるのは”その人の人生を壊す可能性がある”と思いました。

ひどく汚れた足の裏

ひどく汚れた 足の裏 怪我してるのか 少し痛いけど どれが僕の血なのか わからないね

歌ネット

どこかの町からずっと裸足で歩いてきたのでしょうか。「ひどく汚れた足の裏 怪我してるのか少し痛いけど」という表現は”それほどに路上が荒れ果てたものだった”と考えさせるものなのかなと思いました。「どれが僕の血なのかわからないね」という歌詞は、色々な人の血が路上に流れているということを連想させるためなのでしょうか。普通は怪我をして自分の体から血が出るものですが、それを判別できないほどに色々な人の血が流れている様子が思い浮かびます。残酷な情景が脳内に浮かんできて、少し心が痛みました。

大きな山の頂で

大きな山の頂で 貴重な生命 身を寄せ合って あたたかな 温度を抱きしめながら 大きな山の麓には 死者の国 僕らを見上げては 光の玉届けて

歌ネット

大きな山の頂に到着した”生存者”たちは身を寄せ合いながら、自分たちから出る熱を抱きしめている情景が思い浮かびます。「大きな山の麓には死者の国」とは、山の頂に辿り着けなかった者や戦争でやられてしまった兵隊さんたちがいるということなのでしょうか。「僕らを見上げては光の玉届けて」とは、亡くなった方々のオーラが山の頂よりももっと上のほうへ飛んでいく様子を表現しているのでしょう。ド直球に歌詞を紡がずに、聞き手に想像させる作りで素敵だと感じる曲でした。

ボストンバッグには

ボストンバッグには 3日分の服とあの子の写真 今頃どこかで 泣いてるかもね それとも笑ってるかもね

歌ネット

ここの歌詞はTikTokで流行っていたため、知っている方も少なからずいるのではないでしょうか。TikTokではエモい感じで表現されていましたが、歌詞全体を見通してみると”新しい町へ行く準備”なのだと分かります。「あの子の写真 今頃どこかで泣いてるかもね それとも笑ってるかもね」という箇所は、泣いている場合は”生きている”という意味で笑っている場合は”亡くなっている”という意味なのかなと思いました。自分にとって、ここはあの子への思いが残っているのかなと想像すると胸が苦しくなりました。

新しい亡骸を

新しい亡骸を 峡谷へ落とす 鳥たちがすかさず啄んで 空高く 運んでく 毎日の風景 ずっとつづくね 慣れなきゃ

歌ネット

ここは、”啄む”という言葉の意味をまず理解するところからです。啄むとは、「鳥がくちばしで物をつついて食う」という意味らしいです。ということは、新しい亡骸を峡谷へ落とすたびに鳥がそれをつつき、咥えながら空高く飛んでいくという風景なのかと思うとグロテスクだと感じました。でも、それらは「毎日の風景 ずっとつづくね」と書かれていたので、これからも続く風景なんだろうなと思いました。「慣れなきゃ」とありますが、流石に慣れるのは難しいなと感じました。

さいごに

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今回は、青葉 市子さんの楽曲『いきのこり●ぼくら』の歌詞について考えてみました。どうだったでしょうか。自分と同じ考えを持つ方がおられましたら是非とも、コメントやお問い合わせから教えてください。このサイトでは引き続き、”歌詞考察”の記事を更新していくので随時チェックしてくれると嬉しいです。

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